犯罪被害者遺族として

犯罪被害者遺族の心情

太鼓橋の写真

最近裁判員裁判で死刑になったにもかかわらず、上級審で無期懲役に減刑される事例が相次いでいる。また幼い小学生が犠牲になった事件や通り魔事件も立て続けに起きている。ネットには、厳罰を求める意見があふれている。中には口汚く、裁判官をなじる者もいる。犯罪被害者遺族として、この風潮には違和感を感じる。この記事では、違和感の原因を考えてみることにした。

犯罪被害者遺族の心情

一口に犯罪被害者遺族と言っても、犯人に対する感情は人それぞれである。「考えたくない、そっとしておいて欲しい」という遺族の方もいる。一方、犯人を絶対に許さないという方もいる。後者はよくメディアにも取り上げられるけれども、前者は注目を集めることはほとんどない。私自身の経験を踏まえ、遺族の実態を明らかにしていきたい。

私自身の経験

事件当時

別記事で書いたとおり、母を殺した犯人は無期懲役となった。事件当時は、悲しみや怒りといった感情はあったものの、さほど激しいものではなかった。ただ1年ほどずっと頭がぼーっとしていた。普通の日常生活を送れるようになったのは、一周忌を過ぎたあたりからだった。それからは何事もなかったかのように、30年以上生活してきた。たまに母のことを思い出すことがあっても、苦しさ、寂しさなどは感じなくなっていった。

32年後

事件から32年目となる今年2月、仮釈放審理にあたり遺族の意見を聞きたいと地検から連絡があった。犯人の仮釈放の審理が近く始まるという。連絡を受けてから、母のことが次から次へと思い浮かぶようになった。仕事をしている間はよいけれども、ちょっと一息ついて休憩していると、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったと自責や後悔の念が襲ってくる。事件から30年以上も経っているのに。
別記事を書いてみて、かなりすっきりしたけれども、それでもまだモヤモヤした気分は残ったままだった。時が解決してくれたと考えていたけれども、甘かった。何年経とうが心の奥底にずっと潜んでいるものがあった。無意識のうちに、それを抑え付けていたのかもしれない。32年後、検事さんの電話で一気に噴きだしてきた。

花公園の写真
犯罪被害者遺族としてー32年後の手記、無期懲役囚の仮釈放について考える最近、半分うつ状態で何もやる気が起こらない。ブログにも書きたいことがたくさんあるのだけれども、キーボードに向かっても何も書かずに、wor...

厳罰を望まない遺族はいない、しかし…

私と違って妹は犯人を絶対に許さないと言う。おそらく妹も自責の念に苦しんでいるだろう。私は、どんどん自分の内面へと突き進んでいくことによってその穴を埋めようとしていたけれども、ますます苦しくなるばかりだった。内部にあるものをアウトプットする必要がある。私はブログに記事を書くことによって、かなり気が楽になったし、テレビ局の取材を受け、記者さんと話をする中で、モヤモヤした気分がかなり解消した。一方で妹の対処法は犯人への怒りを募らせることなのだ。2人ともそれぞれ意見は違うけれども、根っこは同じだ。母が亡くなったことによって、ぽっかりと穴があいた日常。

遺族は、復讐心だけで厳罰を望んでいるのではない

犯人が死刑になろうが、刑務所の中で獄死しようが、死んだ人間は生き返らない。遺族は快哉を叫ぶわけでもない。気持ちに一区切りつくだけだ。悔しい気持ち、後悔の気持ちは死ぬまで続く。しかしそれでも遺族は厳罰を望む。怒り、悲しみ、自責の念を吹っ切ろうとして。

感情で法をゆがめてはならない

遺族の気持ちを考えて、厳罰化を叫んでもらうのはありがたいと思う。私達犯罪被害者遺族の権利が確立していったのも、そういう人たちの後押しがあったおかげだ。しかしなかには死刑を無期に減刑した裁判官の名前をさらし、口汚く罵ったり、脅し文句を並べる人もいる。あまり深く考えないで、人を殺したやつは死刑だと声高に主張する人もいる。これは非常に危険だと考える。
厳罰化を求めない遺族はいない。しかし一般の方にはもう少し冷静に判断していただきたい。法治国家日本で、人民裁判のようなことが行われていいはずがない。国民の感情で判決が左右されてはならない。厳罰化をしたいなら、法改正なり永山基準見直しなりの運動をするべきだ。

違和感

この記事の冒頭に違和感と書いた。ヤフコメなどの過激な書き込みに「それは違う」とつぶやきながら、時には嫌悪感すら覚えるのはなぜか。それはこの社会にとって異質なもの、邪魔なものを排除しようとする彼らの意識を強く感じるからだ。私自身社会にうまく適応できない人間だ。彼らの刃は、私自身へも向けられているように感じるのだ。彼らは遺族に寄り添ってと考えて、犯人をたたいているのかもしれない。しかし上で述べたように、犯人に重罰が科せられたとしても、遺族が救われることはない。事件の前の日常を取り返すことはできない。永遠に。あとには、空虚な達成感が残るだけである。新たな日常を作り出すために、遺族は苦闘を続けていかなければならない。
断っておくけれども、私は死刑廃止論者ではない。犯人には、しかるべき刑罰が与えられるべきだと考えている。その上で、不幸な事件を減らしていくために何をしたらよいかを考えてもらいたい。